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2007年5月23日水曜日

ヴィヴァルディのファゴット協奏曲、そして合奏団のこと (ぶっちゃー)

以前、ヴィヴァルディの協奏曲に触れた時、ネットをウロウロしていて、とあるヴィヴァルディに関するサイトに出会った。

「赤毛の司祭」というのが、それ。 管理人のカーザヴェーチャさんの、ヴィヴァルディに関する博覧強記振りに驚いて、ヴィヴァルディの協奏曲と、彼が面倒を見ていたというピエタ教会の女性合 奏団について質問してみたところ、この度回答を頂いた。カーザヴェーチャさんに許可を頂いたので、BBSでの遣り取りをそのまま紹介する。

既に知られてい る話もあるけれど、ここまで詳しい記述は知らなかった。 「39曲もの協奏曲がどういうソリストを目当てに書かれたか?」という事は、依然謎のままではあるけれど、当時のヴィヴァルディの活動の状況や、ピエタの女性合奏団の様子もちょって判って面白い。

それにしても、ここまで調べ上げるカーザヴェーチャさんには頭が下がるばかり。とにかく「赤毛の司祭」は一度ご覧になるといい。特に、 References にある「出生から永遠の旅立ちまで -ヴィヴァルディの足跡を追い求めて-」は、ヴィヴァルディの伝記であると同時に、ヴィヴァルディをめぐるヴェネチア案内としても秀逸。既にヴェネチアを 訪れながら、ヴィヴァルディの事をすっかり忘れていた愚か者としては、これを手に彼の地を再訪したいと願って止まない。

カーザヴェーチャさん、ご協力本当にありがとうございました。

【以下、「赤毛の司祭」より転載】


タイトルファゴット協奏曲、そして合奏団のこと
記事No1578
投稿日: 2007/04/27(Fri) 03:43
投稿者ぶっちゃー

カーザヴェーチャ様

昨晩、トゥーネマン/イ・ムジチのファゴット協奏曲のCDを聴きながらネットサーフィンしているうちに、このすごいサイトに行き当たりました。そこで、ぜひ教えていただきたいのですが。

ヴィ ヴァルディのファゴット協奏曲は、バイオリン(200曲以上)の次に多い39曲ということですね。バイオリンはヴィヴァルディ自らが奏者であるし、元々ソ ロを取る事の多い楽器なので圧倒的に曲数の多いのもそれなりに判るのですが、ファゴットは元々それほどソロを取る事のない楽器だと思いますし、いずれにし てもこんなに多くファゴットの為に協奏曲を書いたという作曲家を知りません。彼の関わったピエタの合奏団には余程優れた奏者、あるいはヴィヴァルディお気 に入りの奏者が居たという事なのでしょうか?

ついては、ファゴットあるいは他のソロ奏者について、何かご存知のお話(エピソード)ありましたら、ご紹介下さい。

またバロック時代の女性だけの合奏団というのは、あまりビジュアル的に想像出来ません。カーザヴェーチャさんがおっしゃる様に、ピエタは「修道院では無い」という事であれば、我々が想像しがちないわゆる「修道女」姿でもないのでしょうけれど。これも何か判れば。

突然のぶしつけな質問で恐縮ですが、宜しくお願い致します。


タイトルRe: ファゴット協奏曲、そして合奏団のこと
記事No1581
投稿日: 2007/05/22(Tue) 02:18
投稿者カーザヴェーチャ

 ぶっちゃーさん、連休明けのお約束が急に身辺が忙しくなって、なんと二週間もずれ込んでしまいました。長らくお待たせしまして申し訳ありませんでした。

  さて、現存する39曲(内、RV468とRV482の2曲は不完全)のファゴット協奏曲は、そのほとんどが、1728年ごろから1737年ごろにかけて書 かれたものです。『四季』を含む作品8の献呈先、ボヘミアの貴族ヴェンツェル・フォン・モルツィン伯爵に捧げられたファゴット協奏曲RV496は、音楽史 上最初の作品と目されていますが、作曲されたのは1725年ごろでした。ちなみに、ずっと手元に置いて推敲を繰り返した作品は、RV498でした。いずれ にしろ、これほど高度な演奏技術を要する作品を、次々と書けたのは、おそらく、ファゴットの名人が何人かいて、彼らから演奏上の技法を作曲する際の知識と して得ていたのではないかと考えられています。
 もし、それが一人だったとすれば、1700年ごろ生まれの、ジュゼッペ・ビアンカルディという名 人で、実際、RV502 の手稿には彼の名前が書き込まれています。しかし、この当時まだ珍しかったゲルマン由来の管楽器に強い関心を抱き始めたのは、もっとずっと前で、1717 年にヴェネツィアで初演したRV 719『ダリオ(ダレイオス)の戴冠』の中で、伴奏楽器としてのファゴットに重要な役割を担わせていることから、当時ヴェネツィアに滞在していたザクセン 選帝侯皇太子フリードゥリッヒ・アウグストゥスⅡ世が連れてきたオーケストラのメンバーに、ファゴットの名人がいたのではないかと考えられています。

 ピエタとの関係では、この低音楽器は、少なくともピエタ音楽院では鳴らされなかったようです。当時の帳簿に、ファゴットやリードを購入した記録がないからで、ファゴットの教師を雇ったという記録すらないのです。

  ところで、ピエタの「合奏・合唱の娘たち」の格好ですが、私の知る限り、絵として残されているものがたった一枚あります。ヴェネツィアのコッレール博物館 所蔵の、ジョヴァン二・グレーフェンブロッホGiovanni Grevenbrochが描いた、『孤児の娘たち』Le Figlie Orfanelleという絵です。ただし、ヴィヴァルディの頃よりやや時代が下って、18世紀半ば頃の格好ですが、ふつうの世俗の姿です。茶系や濃い緑 系、黒系の胸繰りが縦に深く開いたドレスに、おそらく白い絹のスカーフを襟から胸元にかけて重ね、髪は小さく結い上げておそらく赤い石榴の花のようなもの を、髷に挿しています。瀟洒な鉄格子の向うに並ぶ上半身像ですので、細部はわかりませんが、決して修道女の格好ではありません。

 ピエタ 教会に本部を置いて、世界各地に演奏旅行に出ているレ・ヴィヴァルディアーネLe Vivaldianeという名の、若い女性だけのバロック合奏団がありますが(来日公演もしています)、その衣装はヴィヴァルディが活躍していた頃の「合 奏・合唱の娘たち」格好を再現したものだそうです。


タイトルRe^2: ファゴット協奏曲、そして合奏団のこと
記事No1582
投稿日: 2007/05/22(Tue) 04:29
投稿者ぶっちゃー
参照先http://wso-fg-ob.blogspot.com/

カーザヴェーチャ様

ご回答、大変にありがとうございます。却ってお時間を取ら せてちょっと恐縮致しますが、やはり興味深いリポートで大変に参考になります。特に、ファゴット協奏曲がピエタの合奏団では奏されなかったであろうとのお 話は意外でしたが、説得力ありますね。私はある大学オケの出身ですが、最初の女性奏者の出現は1979年でしたから(笑)。やはりヴィヴァルディの時代 に、あの楽器を抱えてソロを吹き鳴らす女性奏者の姿はちょっと想像し難いものがあります。

それにピエタの女性合奏団のいでたち、あるいは現在活動している合奏団のお話も大変参考になりました。(小さいながらネットで写真も見つかりました。)

実は、最近その大学オケのファゴット・パートのOBで立ち上げたブログがあるのですが、そこにこのリポートを紹介(転載)させて頂いて宜しいでしょうか? (サイト・アドレス:http://wso-fg-ob.blogspot.com/ )

と ころで、リポート中に触れられている「ジュゼッペ・ビアンカルディという名人」という人はイタリア名の様で、文脈からは同じく文中に触れられているボヘミ アやザクセンの合奏団のメンバーでは無いように受取りましたが、ヴェネチアの人なんでしょうか? これは、もう調べて頂かなくても結構ですので、お分かり の事があれば教えて下さい。

本当に今回はありがとうございました。これからも楽しみに拝見させて頂きます。

タイトルRe^3: ファゴット協奏曲、そして合奏団のこと
記事No1583
投稿日: 2007/05/22(Tue) 07:12
投稿者ぶっちゃー
参照先http://wso-fg-ob.blogspot.com/

カーザヴェーチャ様

重ねて、恐縮です。

1725年から35年の10年間は「ピエタの職を離れてヨーロッパ各地に長期旅行に出る事が多かった」という話もある様ですね。となると、それも「ファゴット協奏曲はピエタの合奏団では演奏されなかった」であろう事を裏付ける訳ですか?


タイトルRe^4: ファゴット協奏曲、そして合奏団のこと
記事No1584
投稿日: 2007/05/22(Tue) 22:41
投稿者カーザヴェーチャ

 ジュゼッペ(または愛称を交えてジョゼッピーノ)・ビアンカルディGiuseppe(Gioseppino) Biancardiは、1699年ないしは1700年におそらくヴェネツィアで生まれたのだろうと考えられています。詳しいことは伝わってなく、1727 年にヴェネツィア演奏家組合l'Arte de' Sonadori di Veneziaの一員として登録されています。

 ピエタ音楽 院でも、ファゴットは演奏されていたという仮説をとる人もいます。その論拠として挙げているのが、1739年8月に老ヴィヴァルディと会って協奏曲を数曲 買い求め、さらにヴェネツィアの4大慈善院付属音楽院での演奏を実際に聴いた、フランスの啓蒙思想家シャルル・ドゥ・ブロス(1709-77)が、回想録 に「合奏・合唱の娘たちがヴァイオリン、フルート、オルガン、オーボエ、チェロ、ファゴットを演奏する」と書き残していることと、当時は、オーボエ奏者が ファゴットも演奏することが普通だったことの2点です。

 しかし、ドゥ・ブロスの回想録のこの部分は、ピエタ、メンディカンティ、インク ラービリ、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの4大音楽院全体について述べている箇所であって、ピエタ音楽院だけを個別的に取り上げて云々してはいませ ん。それに、当時のピエタの資料には、一人ひとりの担当楽器が細かく書かれていてるのですが、そこにファゴットの文字が無いこと、そして何よりも、楽器そ のものを購入したり、消耗品のリードすら購入した記録が残っていないことを考えると、この仮説は説得力に欠けます。

 1725年から35 年までの10年間は、「ピエタの職を離れてヨーロッパ各地に長期旅行に出る事が多かった」というのは、やや誇張されていると思います。 Referencesの『出生から永遠の旅立ちまで』の「(5)青年期から壮年期へ」にも書きましたが、1723年以降は、毎月新曲を二曲提供してリハー サルを二、三回するが、公演やオペラ上演でヴェネツィアを不在にする際は、作品を郵送するだけで良いという、かなり緩やかな契約をピエタと交わしていまし たし、必ず立ち会うことにしていたオペラのリハーサルと上演の記録を見ると、1725年からピエタに「協奏曲長」として再就任する35年までに、ヴェネ ツィアを長期離れていたのが確実なのが、プラハでの上演記録のある1730年と31年の2年間のみです。それ以外は、たとえフィレンツェ、ヴェローナ、マ ントヴァ、プラハに一時的に滞在したとしても、
かならずヴェネツィアでの上演がありました。それが興行主を兼ねている場合は、なおさら長期のヴェ ネツィア不在は無理でした。しかし、そのこととファゴット協奏曲がピエタで演奏されなかったこととは関係がありません。万が一ファゴット協奏曲をピエタの ために作曲したとすれば、ヴェネツィアに帰っている間にリハーサルを二、三回する時間は十分あったでしょうから。

前回の私の書き込みをご自分のブログに転載されたいとのことですが、このサイトからの転記ということを明記していただければ結構です。大変光栄に存じます。

タイトルRe^5: ファゴット協奏曲、そして合奏団のこと
記事No1585
投稿日: 2007/05/23(Wed) 02:14
投稿者ぶっちゃー
参照先http://wso-fg-ob.blogspot.com/

カーザヴェーチャ様

重ねての詳細なご説明、本当にありがとうございます。謎は解けないままですが、いろいろ勉強になります。

それにしても「当時は、オーボエ奏者がファゴットも演奏することが普通だった」とのこと。実は、私の先輩の中にもファゴットとオーボエを共に演奏する名手がいます。ヴィヴァルディの時代のひそみに倣っているとは...

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